アスガー・ファルハディ監督「別離」


「別離」を観てから少し時間が経ってしまいましたので、「印象」のようなことしか語れないのですが、なんとももやもやした黒いものが心に残る映画でした。誰も悪くはないのに物事は最悪な方向へと流れる。でも、どうしようもないことなのです。しかし、それは本当にどうしようもないことなのでしょうか?結局、人間であるがゆえに持つ「欲」なのではないでしょうか?(*写真:神戸市中央区元町商店街四丁目より見た雨のポートタワー)
年老いた親の介護がしたい、自分のことはどうでもいい、と思っていたとしても、結局「したい」。宗教を信じ“たい”、救われ“たい”、子供に良い教育を受けさせ“たい”…私利私欲は捨てているように一見思えても、結局は人間であるがゆえに起こる何かを欲する気持ち。人間でなかったら、こんな苦しみはなかったのかなと、時々思ってしまいます。
そんな自分の信じるもの、“欲”にしがみつき、柔らかそうに善人そうに(実際、登場人物は皆善人だと思います、念のため)振る舞いながらも、結局は相手を受け入れない。家族をバラバラにし、まだ子供の娘を深く傷つけ、そこまでして信じるようなものだったのだろうか。
“The real hell of life is everyone has his reasons.” ― Jean Renoir

ジャン・ルノワールの有名な言葉。まさにそれが“The real hell of life”なのだろう。

ところで、日本国内では人間の持つ“さが”ゆえに起こる悲劇のような解釈をされがちな本作品だが、監督御自身はインタビューでおもしろいことを述べておられる。

曰く、娘のテルメーが象徴するものはイランの未来であると。遠くない将来のイランは民主主義や“自由”を手に入れるかもしれないのだが、自由とは自らの行動すべてに責任を負うということ。誰にも何も強要されないということは、苦しい選択も自らしなければいけないということ。ラストシーンのテルメーの苦しみは、将来自由に面したときにイランが経験するであろう苦しみでもあるというのだ。なるほど、そう考えると、登場人物それぞれが象徴するものもまた違った角度から見えてきそうだ。

「別離」(英題 “A Separation”)
製作:2011年 イラン
監督:アスガー・ファルハディ
出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ、ババク・カリミ
写真:神戸市中央区元町映画館前の看板(http://www.motoei.com/


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