浅田彰氏+市田良彦氏によるゴダール@元町映画館

去る四月十日、元町映画館での浅田彰さんと市田良彦さんによる『シネフィルでない人のためのゴダール入門』というトークショーに行ってまいりました。今日はその内容です。

実はこれをブログに書いてよいのやらどうやら、ちょっと迷いました。というのは、両氏がおっしゃったことを私が文字にするということを両氏から正式に許可されているわけでもないし、録音媒体から書起したものではなく記憶に頼って書くことになりますので、お二方の真意からずれてしまう可能性もありまして、それはちょっとよろしくないことだなあと思ったのです。しかしながら、ツイッターなどを拝見していますと、当日行けなかった方も沢山いらっしゃるようですので、とりあえず、自分の記録のためにもということで書くことにしました。

先にも述べましたように、お二方が仰ったことなのですが、私のフィルターを通して解釈されていますので、もしかしたら多少の誤解も含んでいるかもしれません(できるだけ客観的に書くようにはしましたし、憶えていないことは書かないようにしましたが)。もしひどい間違いがありましたら、どうぞご指摘くださいませ。また、記憶に頼っていますのでかなり内容的に欠落している部分もあることをお許しくださいませ… 尚、本文中[* ]で囲まれた部分は私の言葉・注釈です。

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はじめに

(浅田氏)映画というものはやはり映画館、特に、小さい映画館、単館で見たい。映画館で映画を見るということ、それは単なる「情報」の収集ではなく、ある一つの体験であり、それは体験として記憶の中に残るのである。映画館で映画を見るのが好きだという人を「シネフィリー」「シネフィル」というのだけれど、ゴダールもまたシネフィルである。映画が大好きなのである。ゴダール曰く「映画がテレビより凄いのは、テレビは小さい箱にすぎないが、映画は大きなスクリーンに映し出されるということ。そこが偉大だ」

(市田氏)自伝『JLG』に代表されるようなゴダールのメランコリズムやナルシシズムは少々鼻につく。それが『フォーエヴァー・モーツァルト』を封切り当時見なかった理由の一つでもある。ゴダールは、映画が芸術に成り得ない、完結し得ないという事実を前にして悪戦苦闘し、右往左往する。それはコミカルでもある。この滑稽さとメランコリズムとのギャップ、それがゴダールの面白さの一つなのだ。

『歴史』を描くということ

真に『歴史』を映像と音で見せることが出来る芸術とは映画のみであるとゴダールは考える。歴史とは『今』起こっていることであり、『歴史』を映画で見せるということは『今』を見せるということなのだ。ゴダールの生きる欧州における20世紀最大の残すべき歴史的事件とは、言うまでもなくホロコーストである。ゴダールはこの時もちろん映画を制作できる立場(年齢)ではなかったのであるから撮り損ねたということになるであろう。このホロコーストを描けなかった、描き損ねたという事実はゴダールにとっては一生背負っていく「原罪」なのである。自分は現代史の生き証人である、自分が現代史を映画に残すのだという使命を負っていると信じているかのようなゴダールの姿はまさにドン・キホーテのようなもの。そのような流れの中で、ゴダールが忌み嫌うハリウッドで巨匠スピルバーグが『シンドラーのリスト』を撮ったということは真に皮肉な話であるし、ゴダール自身かなり衝撃を受けているのではないだろうか。しかしながら、ゴダールはスピルバーグよりもむしろ、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』に激しく嫉妬したのではなかろうか?何故なら、ナチスによるユダヤ人虐殺というテーマだけでもう十分立派な映画が一本出来てしまうのに、タランティーノはそこに”お馬鹿なアメリカ人”という全く不要とも思える要素を放り込んできたのであるから。(浅田氏)

ゴダールによる「引用」について

トリフォーなどはいかにもシネフィル的な洗練された映画を撮り、シネフィルから賞賛された。一方ゴダールはそれに逆らうように、本からの引用、本を読むシーンなどを多用。これは非常に「bookish」であり、ある意味「ダサい」ことである。しかしゴダールはあえてそれをやったのだ。(浅田氏)

ロメールやリベットという映画監督は真のヨーロッパ的教養を身につけている。故に、本など引用しなくともヨーロッパ的な香りが自ずと映画に出るのである。ゴダールはと言えば、そんな彼らを敵対視、もう本当に嫌っていたという。実はゴダールは本をちゃんと読んでいない。すべてがわかった上で引用しているかどうかは非常に怪しいところである。適当に見つけたものをゼロックスでコピーして子供のように散りばめているにすぎないのだ。しかも同じ言葉を何度も使い回しながら。このあたりはアメリカに反抗しながらも実にアメリカ的なやり方なのである。(浅田氏)

しかしながらここで注目すべきは彼のセンスの良さである。彼の見つけてくる言葉は実にセンスが良い。特に、インテリヨーロッパ人でも知らないような、コアなファンしか知り得ないような言葉を持ってきた時など、「ふふ、俺はこれを知っているぞ」という見る者の自己満足を大いに満たす作用もあるのだ。(市田氏)[*ゴダールの引用のセンスの良さについては浅田氏も同様に繰り返し述べておられました]

コラージュ

ゴダールの手法とは、フィルムで撮影した素材を(敵とも言える)ビデオによってズタズタに切り刻み、いったん破壊した後に修正、再構築するというものである。特に『映画史』以降この手法が取られた。ゴダールはこのような破壊・修正の後に何か新たな物語が生まれるのではないかと期待していたわけで、『フォーエヴァーモーツァルト』もこの新たな試みの一つと言えるのではないだろうか。(浅田氏)

最新作『ゴダール・ソシアリスム(Film Socialism)』について

~タイトルの「ソシアリスム」について~
タイトル「ソシアリスム」の意味を問われたゴダールは、それは「ジェネロシテ(generosite、寛大さ)」であると答えたそうだ。[*わかりやすく言うと]ハリウッドのプロダクションは巨額の資金を持っているが秒刻みのスケジュールに縛られており、撮影は「アークション!」で始まり、シーンが終わるや否や「カーット!」で終わる。とてもケチなのである。一方、ヨーロッパではカメラが回り始めると監督は「どうぞ」と言い、俳優の演技が終わりきるのをゆっくりと待って「ありがとう」で終わる。金はないがフィルムは惜しまない。とても「贅沢」なのである。このようなことに気前良く時間やお金を使う「寛大さ」「贅沢」。それが「ソシアリスム」なのだそうだ。(浅田氏)

・[*筆者注:ネタばれあります] 本作品は三部構成になっているのだが、その最終楽章はものすごい疾走感を持って描かれている。この第三楽章のラストにいきなりアメリカ映画でお馴染みのFIBによる「WARNING」(*著作権に関する注意書き)の文字が現れ最後には「No Comment」の文字が。これは、著作権など何もクリアにしていない、勝手に使いましたよ、ということの表明なのではないだろうか。これがすごくかっこいい。(市田氏)

・(この作品の第三楽章<<我ら人類>>は、「人類史」を築いた6つの場所を訪問するという設定なのであるが)「人類史」「世界」と言いつつ、結局これは地中海を取り巻くヨーロッパを中心とした「世界」にすぎず、そこにはアジアやアメリカは含まれていないのである。結局ゴダールにとっての「世界」とはヨーロッパなのである。それ(アメリカを世界に含んでいないということ)を補うためであろうか、とってつけたようにパティ・スミスが登場する。どう見ても唐突でありダサイ。明らかにアメリカを馬鹿にしている。ヨーロッパ(*の長い歴史に裏付けられた洗練)と比べたときのアメリカのダサさをおちょくっているかのごとくである。(浅田氏)

・前述のFBIのWarningの使用や、とってつけたようなダサいロックの描写、これらはアメリカを中心とするグローバリズムには屈しないぞというゴダールのレジスタンスの表れであるとも言えるのではないだろうか。(市田氏)

・船のデッキから海に向かって母国語で延々と何かを語るアフリカ系女性のシーンがある。実は『フォーエバー・モーツァルト』でも非常に似たシーンが登場する。サラエヴォへと向かう列車のデッキでの中東系女性ジャミラによるアラビア語での独白シーンである。この二つのシーン、カメラのアングルなど、ほとんど同じショットなのだ。これは「外から見た相対的なヨーロッパ像も入れておきましたよ、ヨーロッパは反省もするのですよ」という開き直りとも取れるのではないだろうか。(浅田氏)[*筆者注:もしかしたら最後の解釈は浅田氏の真意からずれている可能性もあります。途中で私の解釈が混ざってしまいましたので]

上映作品『フォー・エバー・モーツァルト』について

[*市田氏は、公開当時見ていらっしゃらなかったようで、今回トークをするからと言って見るのは何か負けたような気分でしゃくに触るので見なかったということでした。]

~ストーリ~
この映画を一回見て筋がわかる人などいるはずがない!私も試写で最初観たとき、登場人物は多いし、誰も知らない俳優ばかりだしということで、後で皆で額をつきあわせて「あそこはどういうことだろう、ここはどうなんだろう」と話し合ったくらいである。(浅田氏)

~音作り~
本作品はその音楽が素晴らしいのであるが、それは個々の使用されている楽曲が素晴らしいのではなく、ゴダールの見せ方(聴かせ方)が素晴らしいにすぎない。実際、作品内で断片的に使用されている曲を含むアルバムを買って聴いてみるとわかるが、かなり落胆するはずである。ゴダール自身、タダ同然で送ってもらったサンプル曲から適当に選んで切り刻んでつなぎ合わせただけなのである。(浅田氏)

~誰がゴダールなのか?~
登場人物のうち、誰がゴダール自身を投影しているかと言えば、(確定的ではないのだがあえて言うと)それは映画監督のヴィッキーであろう。ヴィッキーは金で雇われて下らない映画を撮っている。ゴダールは「もはや映画で物語を語ることは不可能である」と言いたいのであろうか[*筆者注:すみません、これが筆者の考えなのか、浅田氏が仰ったのか、思い出せません]。だからといって、ゴダール自身、映画を「諦めた」わけではない。「ウイ」という一言を撮るためにヴィッキーが延々と何百テイクもの駄目だしをし、ようやくヴィッキーの求める「ウイ」を得た後に続く一連の海辺のシーン。本作品の中で最も「壮麗」なシーンである。ここでゴダールはオリヴェイラ監督の言葉「私が映画一般で好きなのは、説明不在の光を浴びる壮麗な徴(しるし)たちの飽和だ…」を引用しているが、[*この映画にこめたメッセージがあるとすれば]それはこのシーンであろう。映画中で最も壮麗なシーンでオリヴェイラ監督の言葉を引用しているのだ。恐らくゴダールが現在唯一意識しているのが彼(或いは彼の年齢)であるのではなかろうか。(浅田氏)

~何故ボスニア紛争なのか?~
前述の通り、ゴダールは単純に今目の前で起こっている歴史に係わり合いたかっただけにすぎない。そしてこの時欧州で起こっていたのがボスニア紛争。それだけのことである。(浅田氏)

~トーク後 オーディエンスから出された質問~
-ラストに映し出される様々な絵画のコラージュの意味は?
-(浅田氏)意味はありません。

-タイトル『For Ever Mozart』と、foreverが二語に切られているが意味はあるのか?
-(両氏)意味はありません。単純に米語とイギリス語の綴りの違いだ。アメリカ的なもの(foreverと続ける方の綴り)を小馬鹿にしただけだろう。

*以下、4月15日にちょっとだけ追加したものです。

今後が心配…(?)

(*前衛映画・実験的映画を撮り続ける)ストローブはユイレの死により その右腕を失ってしまったのだが、ゴダールも自身の右腕とも言える編集スタジオをこのほど売却してしまった。この編集スタジオの売却はちょっと注目すべき事件である。一体 ゴダールは今後どうするつもりなのであろうか?[*ある意味 丸腰となった]二人の今後が気になるところである。(市田氏)

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以上です。この他にも、中国女の先見性、パレスチナへの突撃と挫折、フランク・ザッパとの共通点、自身の編集スタジオの売却、ストローブのこと などなど盛り沢山でしたが、ここらへんでやめておきます。全体的な私が受けた印象としては:ゴダールも案外ええ加減な困ったおっさん。引用の嵐に戸惑う必要なし。あのおっさんも深くは考えてないよ(ただし、これには裏があると思いますが…)心配せずにゴダールを観ましょう!というものでした。

乱文をお許しくださいませ、元映でのゴダール祭りが明日までということでとりあえず急いで出しました。また加筆・修正を行なうかもしれません…参考にしていただけたら幸いです。


ブルーレイコレクション『ゴダール・ソシアリスム』11月26日リリース!

*ブログ『Days in the Bottom of My Kitchen』 2011.4.14掲載


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