本橋成一監督「ナージャの村」
本作品は写真家である本橋成一氏の作品だけあって映像が美しい。社会派ドキュメンタリーにありがちな拳をつきあげるような叫びやあからさまな問題提議も一切ない。大地とともに静かに生きる人々の姿が四季を通して映し出される。
村の人々は(ある1シーンのみを除いて)原発事故に対する不満を一切口にしない。映画の冒頭、「人間が汚染した大地をどうして私たちが見捨てることができようか」という文字が画面に映し出される。村民が事故を起こしたわけではない。しかもドゥヂチ村の住民は原発の恩恵をまったく受けていなかったという。それなのに、彼らは事故への不満や憤りを口にするどころか、この事故を大地に対する人類全体の責任としてとらえているようにも見える。彼らにとって自分たちが生まれた故郷の大地とは自分でもあり、自分も大地の一部なのであろう。故にそこを離れるか離れないかということは、そこが汚染されているかいないかという問題に左右されるようなことではないのであろう。村民の一人ニコライは言う:「天国はいらない。故郷をくれ」
作品に登場する人物の中でとりわけ私が気に入ったのが老婆チャイコ・バーバである。彼女は放射能汚染に対する不安や不満は一切口にしない(或いは、まったく気にしていない様子である)。彼女は日々自分たちを生かしてくれる野菜や山羊のミルクや馬や季節の移り変わりのほうが心配でしようがないようだ。自分の家で飼っている耕作用の馬が行方不明になったと半泣きになっておろおろするバーバ。台所で子猫に話しかけるバーバ。山羊のシロから毎日コップ一杯のミルクをもらい嬉しそうなバーバ。傑作シーンは、ミルクを毎日出してくれるシロが死んだとき「シロの遺骸を外に置いておいたら犬に食べられてしまった。かわいそうに…」と哀しみに暮れるバーバに対し、息子のチャイコ(名前が紛らわしいですね)は「でも犬は満腹だ」と言い捨てる。そしてこのくだりは二度繰り返される。コントのような会話で笑ってしまうのだが、どんないきものも命を頂いて生きているのだなという現実をこの村の人たちは意識せずにわかっているのだと考えさせられるシーンである。
現在日本でもこの村と似たような状況(そして展開次第では今後同じ道をたどる可能性もゼロではない)にある町や村がいくつもあります。政府が強制避難区域に指定した地域にあって冷静にその指示に従い避難した人々、指定に従わず(それぞれの事情があり)残った人々、指定区域でなくても自主的に避難した人々。このような人々に対して補償のあり方が異なってはいけないということを政府は理解すべきでしょう。とった行動は違うにせよ、失ったものは結局同じなのですから。本作品『ナージャの村』を責任ある立場の人間に是非見てもらいたいと思うのですが、今の政府にこの美しい作品の底にある静かで繊細な叫びや哀しみがわかる人は果たしているのかな?とも思ってしまいました。(まあ、大連立やら原発問題やらで映画など見てはくれないでしょうが…)
最後に本作品で私が最も好きなシーンを。
春が近い冬のある日、雪に覆われた畑を前にチャイコ・バーバは大地に話しかける:
「暖かくなったら 仕事にとりかかろう。タマネギ、ライムギ、キュウリ、じゃがいも。暖かくなったら 種を蒔こう」
「ナージャの村」
製作:1997年 日本・ベラルーシ
企画・監督:本橋成一
製作総括:鎌田實
製作:神谷さだ子、小松原時夫
撮影:一之瀬正史
語り:小沢昭一
私的評価:★★★★★ 90点
ポレポレタイムス社HP: http://movies.polepoletimes.jp/nadya/
神戸・元町映画館公式HP: http://www.motoei.com/
「ナージャの村」から5年後に本橋監督が作られた「アレクセイの泉」とともにツインパックDVDが出ています:『本橋成一ツインパック 「ナージャの村」「アレクセイと泉」 チェルノブイリ~人間と大地の記録~ [DVD]』
第17回土門拳賞も受賞された同監督による写真集『ナージャの村 』
*ブログ『Days in the Bottom of My Kitchen』 2011.6.8 掲載