自論なのだが、映画には無意味なカットがあってはならない。どんなに何気なく聞こえる会話やシーンもそこに必要なものであるべきであり、周到に練られたものでなければいけない。日常のさりげない一コマを描き出すのだと言って本当にさりげなく無意味な会話が延々と続く作品を見ると正直うんざりする。
「2010年7月24日 あなたの日常のひとコマを記録しませんか」。YouTubeで動画募集の告知が行なわれた。それに応じ、世界192カ国からのべ80,000本、4,500時間以上の映像が投稿された。これらの普通の人間のある一日のある瞬間をつなぎあわせたドキュメンタリーが「LIFE IN A DAY」である。日付けが限定されているのであるからドラマを期待できるわけでもなく、集まる映像は「さりげなく何気ない、でも大切な『私』の日常」のオンパレードになるであろうことは容易に推測できる。こんなものがちゃんとした映画になるのであろうか?
結論から言うと、それはちゃんとした映画になっていた。世界中の人々のある日の生活がほとんど説明もなく次々に時系列に映し出される。そこにあるであろう(そして大半はないであろう)ドラマはほとんど語られない。日が昇って顔を洗って朝食をとって仕事に出かける。子供、大人、男、女、ゲイ、病人、老人。どこかの保険会社のCMのようにも聞こえる。普通、保険会社のCMを90分もじっと見てはいられないだろう。しかし「LIFE IN A DAY」は見ていられた。映画が進むにつれ引き込まれている自分に気付く。保険会社のCMではなかったのだ。映画館を出た後、少し元気になっている自分がいた。
世界中の人々の生活、異文化、こういうものを映像で見せられると普通はその違いに驚いたり羨ましく思ったり優越感を持ったり哀れんだりするものだ。世界にはこんなに色んな境遇の人々がいるのだよということを押し付けがましく描いているものがこの手の作品には多いのではなかろうか。しかし、「LIFE IN A DAY」はその真逆。生活のレベルや家族構成や仕事や境遇や肌の色やGDPや政治や性癖や食べるものやあらゆるものが違うと思っていた人々の間に(少なくとも私は)ほとんど距離が感じられないのである。冒頭に映し出される大きな満月。そしてやがて夜が明ける。夜が明ければ目を覚ます。自分は特別だ、不幸だ、幸福だ、豊かだ、などとのたまったところで、「起きる」といういたって単純な行為までもが結局は自然に支配されている。もちろん、本作品に登場する人々の背後にはそれぞれの「ドラマ」があるだろうし、それがちらほら垣間見えるシーンもある。でもそんな個人個人の「ドラマ」があるにせよ、生まれてきて食べて寝て死ぬというルーティンに関しては何の違いもない。映画が進むにつれ、画面に映っている人々がみんな大きな生命体の中の一つ一つの小さな細胞或いは構成要素のように見えてくる。私も細胞の一つだ。そうすると、「人類皆兄弟」ではないけれど、全人類が本当に兄弟のように感じられてくる。(ちょっと大袈裟ではあるが)「世界は一つ」という言葉の意味が初めてわかったような気がした。
「世界に一つだけの花」とかなんとかいう歌が流行ったが、所詮我々はそんなにすごくないのである。かけがえのない存在でもないのである。地球を構成している一つ一つの粒にすぎないである。「LIFE IN A DAY」は、そんなことを改めて認識させてくれた作品だ。(写真:神戸市中央区
元町映画館前看板)
追記:数時間たって思い出しました!冒頭の「自論」は「自論」ではなく大学の時の16mm制作の授業でWinterさんという教授が口を酸っぱくして言うてたことでした….。いつのまにか自論になっていました…。
追記2(11月7日)
このレビューを書いてから数日後に他の方が書いたレビューを偶然読むという機会がありました。そこにはあるシーンについて「部屋が散らかって汚すぎるので感情移入できない」という記述がありました。これに私はひどくショックを受け(私はそんな風にはまったく見えなかった、感じなかったもので)、そしてかなり昔にNHKで見た「映像の世紀」というドキュメンタリーを思い出しました。「LIFE in a DAY」とこの「映像の世紀」についてまた別の機会に書こうと考えています。
2011/11/04 15:28 |
category : 映画レビュー |
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