ヴィットリオ・デ・シーカ監督「ひまわり」


何度観ても泣いてしまう映画ってありますよね。「何度観ても」というより、「何度も観るから」泣いてしまうのかもしれません。「ひまわり」は私にとってはそんな映画です。条件反射的にあの音楽が流れるともう、うるっときてしまいます。(写真:神戸市兵庫区KAVC前のポスター)
映画「ひまわり」のあらすじについては今更ここで私が書くこともないのですが、もし、よく知らないけれどもどんな映画かと興味をお持ちの方のためにざっとだけ述べますと:時は第二次世界大戦末期、ナポリで知り合い激しい恋に落ちた兵隊のアントニオとジョバンナ。二人は結婚するもすぐにアントニオはソ連の戦地へ。やがて終戦を迎えるが夫は帰らず行方不明者扱い。夫は生きていると信じるジョバンナは独りソ連の地へ自ら夫を捜しに。長い旅路の果てに彼女が見つけたものは、美しい妻と可愛い娘とともに暮らすアントニオの姿…。
冒頭のひまわり畑とヘンリー・マンシーニの音楽だけでもう泣きそうになってしまうのですが、涙腺が爆発するのはやはり二人の女が出会うシーン。夫アントニオの写真を手にロシアの町々を訪れ人々にたずねるジョバンナ。そしてようやく「それならあそこだよ」という身振りで指さされた先には庭で洗濯物を片付ける美しい女性マーシャの姿が。もうこれだけでジョバンナには直感的にほとんどの状況がわかってしまいます。そしてマーシャにとってもずっと心の奥で恐れていたことが現実になってしまったのです。二人は言葉は通じませんので会話はないのですが、そういうものはもはや必要ではありません。家の中に案内されたジョバンナが目にしたものは、アントニオによく似た可愛らしい女の子、ベッドに並ぶ二つの枕、台所では不安に苛立つマーシャが娘を叱りつける声が響く…(ここで毎回号泣!)
子供の頃に初めてこの映画を観たときもこのシーンで(号泣したかどうかは憶えていませんが)もうぞっとするくらい悲しくなったのを憶えています。だって何年も何年もひたすら待っていたのですよ(スターリンはもう死んだという台詞がありますので、終戦から少なくとも8年経っているということになります)。台詞や説明のないこのシーンの心理描写が秀逸なのです。ソフィア・ローレン扮するジョバンナの目に映る家の中の様子と苛立つマーシャ。幸せそうな暮らしが見えるということは、例えば夫が街で知らない女性と腕を組んで歩いているのを目撃するよりも辛いことなんではないでしょうか、何か最後通告を突きつけられているようで。
このシーンが私にとってはクライマックスなのですが、それより先、ここに通じる重要なシーンが。てがかりを求めてサッカー場を訪れるジョバンナが明らかにイタリア人の風貌を持つ男性を見つけるシーンです。最初は自分がイタリア人であることを否定していた男性もジョバンナの執拗さに負けようやく認めるものの、今は自分はロシア人であると。「何故?」と詰め寄られた男性の答えは「理由はない。こうなってしまっただけだ」というものでした。この一言で我々観客もジョバンナももうわかってしまったのではないでしょうか。アントニオは生きていたとしてももう戻らないと。それまで、きっと夫は何か帰れない理由があるに違いない、でも自分がその理由を排除或いは解決すれば夫と再びイタリアで暮らせると信じていたであろうジョバンナの自信は(自覚はなかったかもしれませんが)ここで崩れ始めていたのです。理由なんてないのです。そうなってしまったのです。戦争がすべてを狂わせたのです。
若い頃はどうしてもジョバンナの気持ちにばかりとらわれていたのですが、今回は「戦争」ということをより強く意識してしまいました。「反戦映画」と言われるとちょっと重いし陰気だしドンパチは苦手で見る気がしないし…という方(特に女性!)、是非本作品を観てみてください。戦争は普通に恋して浜辺で戯れるような平和な生活を送ってきたあなたの人生をもこんなに歪めてしまうものなんです。
 

「ひまわり」(原題 “I Girasoli”)
製作:1970年 イタリア
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
音楽:ヘンリー・マンシーニ
出演:ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ

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