ペドロ・アルモドバル監督「私が、生きる肌」


この作品についてどこまで書いてよいのやら、非常に悩んでおります。素晴らしい作品というものはいわゆる“ネタばれ”があろうがなかろうが素晴らしいものなのですが、やはり中には重要な“ヒミツ”を知りたくないという人は多いと思うのです。なので極力気をつけながら書きますが、何も知りたくない!という方は読まれないほうがよいかもしれません。
大雑把な粗筋を述べておこう。天才的な外科医ロベルは最愛の妻を事故で失ってからというもの、人工皮膚の研究に没頭、禁断の領域とされている遺伝子操作にまで踏み込み、遂には別の人間を使って妻そっくりの女性ベラを創りあげてしまう…
多くの人と同じく、私も上のような予備知識のみを持って劇場へと。そこに描かれているのは狂気の愛なのか?アルモドバルはそれをどのように見せてくれるのか?もうワクワクしながら上映開始を待ったのだが、映画が序盤から中盤へ進むにつれ、「え、これは愛なのだろうか?」という思いが。そう、これは“狂おしいまでの愛の物語”などではなかったのです。
冒頭で述べたように、“ヒミツ”を書いてしまうとこれから鑑賞される方の楽しみを奪うことになるので歯切れは悪くなるのだが、それでも実はアルモドバル自身も最後の最後でドンデン返しを用意するというような“いやらしい”手は使わず、最初から随所にヒント(ヒントというよりはあからさまなのですが)を散りばめている。次に起こること(或いは既に起こったこと)を暗示していく展開に最初から最後まで気が抜けない。無駄や手抜きが一切ない。例えば:
妻そっくりに創り上げた女性ベラに対し「お前など愛するものか」と言うロベル。

家政婦マリリアの「まるで本当の母親のように」という言葉。

ロベルの母親の「あの子たちは私の胎内にいる時から狂っていた。私の胎内が狂っているのだ」という言葉。

レイプされた時のベラの、生まれて初めて男性を受けていれたかのような痛がりよう。

母親の店を手伝うビセンテが店員のクリスティナに対しあるドレスを着るよう勧めた後の「あなたが着ればいいのに」というクリスティナの言葉。

極めつきはやはり最後に書いた「あなたが着ればいいのに」という台詞だろう。ここまでで私も「まさか…でもそうかな」と疑っていたことがあったのだが、この台詞で私の疑いは確信に。そして、ロベルのやろうとしていること(やったこと)の想像以上の恐ろしさに気付く。
ロベルのやっていることは愛などではなかった。愛する者を傷つけた相手を誘拐し、時間をかけた巧妙な飼育によって抵抗できないようにしていく。しかし、家族を死に追いやった相手を何故最愛の妻の姿に変えていくのか。屈折した愛などというものではない。これは復讐なのだ。しかも、その相手そのものに対する復讐ではなく、実は死んだ妻への復讐なのだ。
自分を裏切って不貞をはたらいた妻。その結果としての事故と死。憎む相手を憎む女の姿に創り変え、どこにも逃げられないようにし、ひたすら支配する。彼はもう一度死んだ妻と昔のような生活がしたくて彼女を生き返らせたわけではなく、自分に赦しを請わせたかったのかもしれない。
このような恐ろしい復讐劇。ちょっとホラー映画のようだが、そこはさすがアルモドバル。“気狂い”、“悪魔”と呼ばれても仕方のないようなロベル医師も何故か“きちがい博士”には見えないし、レイプシーンから目をそむけたくなることもない。そのリアリティのなさは、まるで豪華絢爛な歌舞伎や人形浄瑠璃を観ているよう。実に美しいのだ。スリルと美とエロスを同時に味わいたい方には是非とも観ていただきたい。

「私が、生きる肌」(英題 “The Skin I Live In”)
製作:2011年 スペイン
監督:ペドロ・アルモドバル
出演:アントニオ・バンデラス、エレナ・アナヤ、マリサ・パレデス

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