エミール・クストリッツァ監督「アンダーグラウンド」


座右の銘と言っては大げさなのですが、私は「生きてるだけで丸もうけ」という言葉が好きです。これはあのお笑い怪獣こと明石家さんまさんが座右の銘としてしょっちゅう仰っておられること。身近な大切な人の壮絶な死を何度か体験されたさんまさんだからこその言葉だと思います。にもかかわらず、いかなる時もひたすら人を笑わすことに徹する彼はもうすごいと思うのです。少し話が脱線しましたが(いや、案外脱線でもないのですが)、「死ぬまで生きろ!」という言葉も私がよく自らに言う言葉です。残念ながら実際は私自身うじうじ悩む性分でこれらは実践されていないのですが…。だからこそ言葉に頼ってしまうのでしょうか。映画『アンダーグラウンド』はまさに「死ぬまで生き抜いた」人々のお話しです。(写真:神戸市兵庫区新開地本通KAVC)
この作品を理解するには最低限、大雑把でもよいので第二次世界大戦から20世紀末までのユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)と欧州の歴史を知っておかないといけません。キーとなる年は:1941年日独伊同盟へのユーゴの加入(ドイツゲシュタポへの屈服)と、その後のユーゴの中立表明によるドイツ軍からの攻撃と侵略、1943年の社会主義国家の誕生(以降ソ連に取り込まれることへの恐れ)、1961年のドイツ・ベルリンの壁の建設(社会主義を嫌うのであれば西側へ逃げる最後のチャンス)、1991年のユーゴスラビア紛争勃発;です。映画『アンダーグラウンド』は:「第一部 戦争 1941年」「第二部 冷戦 1961年」「第三部 戦争 1991年」の三部構成となっており、先に述べた歴史上の年号はとりあえず知っておいたほうが理解しやすいのです。
ここでとりあえずざっとあらずじを。舞台は1941年の旧ユーゴスラビア・ベオグラード。詩人にして共産党員のマルコと電気技師のクロ。彼らにとって政治活動は表向き、実はヤミ社会で賭博や武器売買をして暮らしていたのだ。マルコの弟イヴァンは吃音症にして脚も悪く動物園で動物の世話をする心優しい青年。クロの愛人(やや片思い)のナタリアはドイツ人に媚を売る劇場の女優。そんな彼らをある日ドイツ軍による爆撃が。愛人ナタリアを自分のものだけにしたいという、愛国心や共産主義とはまったく関係のない動機でクロはドイツ軍将校を殺害、クロとマルコは家族を伴って多くの同志が潜伏する地下の隠れ家に身をかくすことに。やがて第二次世界大戦は終結し物語は第二部へ。時は1961年。チトー大統領の隣にはユーゴ解放の英雄ということになっているマルコとその妻ナタリアの姿があった。しかし驚くべきことに、マルコは地下に隠れるクロや仲間に「ドイツによる国土蹂躙は続いている」と20年間信じこませだまし続けていたのだ。戦争が続いていると信じたまま地上へと出たクロが見たものは…。そして第三部、1991年。ユーゴスラビアは内戦のまっただ中にあった。
映画はのっけから激しい躍動感と生命感に溢れている。ジプシー音楽のような曲を演奏しながら十数人のブラス隊がけたたましく街を駆け抜ける。その楽隊の先頭には銃を乱射しながら馬車を走らせる酔っ払ったマルコとクロの姿が。その音に気づいたマルコの弟イヴァンが窓から「お茶でも飲んでいかない?」とのんきに叫ぶ。こんな光景は昔は普通だったのかなと思ってしまうような、でもよく考えるととても非現実的なオープニングに観客は心をわしづかみにされる。このオープニング、そして直後のドイツ爆撃時にとった三人の行動が彼らの進む道を実にうまく示唆している。ドイツ軍の激しい空爆が行われた朝、マルコは娼婦とセックスの真っ最中。娼婦が出ていったしまった後、街や自分の家が爆撃を受けているのに彼がとった行動はとにかく自分の手でしごいて本能を満たすことであった。そしてクロは奥さんと朝食中。窓ガラスが割れ、動物園から逃げ出した象が窓から覗き、シャンデリアが落ちてこようと、彼はがつがつと朝食を食べ続ける。一方、吃音症の弟イヴァンは動物たちを家に連れ帰り首をつって自殺しようとするが失敗に終わる。マルコによるとこれ(自殺未遂)は日常茶飯事のようだ。周りで戦争が起こっていようともとにかく性欲や食欲といった本能をまずは満たそうとするマルコとクロ。死のうとしても体が死んでくれないイヴァン。彼らの肉体の強烈な生・本能への執着が冒頭部分ではっきりと示されている。
映画の中で彼らは決して「殺さないでくれ」などと命乞いはしないし、また逆に「何があっても明るく生き抜きましょう」などとも言わない。終始流れるブラスのビートに乗って踊り続け、食い続け、女の尻を追いかける。「生き抜くのだ」などと口でしのごの言う前に肉体ではっきりとその意志を示しているのだ。クロや仲間をだまして地下に幽閉し続けることに耐え切れなくなったナタリアに「私の20年を返せ。真実をちょうだい!」とつめよられたマルコが言った言葉は「真実とは肉体のみ。肉体だけが真実なのだ」であった。詩人である彼にしても言葉や信条や信念はすべて虚構、今生きてここに存在し、肉をくらい、セックスをする血の通う肉体にしか真実は存在しないということなのだ。

映画を終始彩る狂ったようなブラスの演奏、地下にあっても貪欲に食事をし宴を開く人々、踊らずにはいられない体。多くの戦争/反戦映画とはまるで違う。致死レベルの電気ショックで拷問されようとも至近距離で手榴弾が爆破しようとも死なないクロ。20年間も地下で生活しているのに明るく踊り続ける人々。宙を舞う花嫁…などなど、御伽噺を観ているような気分にも。しかし監督は要所要所に実際の映像(第二次大戦中の爆撃、チトー大統領の演説や葬儀、葬儀に訪れた要人たちetc)を入れることで、我々を御伽噺から現実へと引き戻し、ユーゴスラビアという国が実際に存在し、殺し合いが行われ、そして消滅したという事実をいやでも思い出させる。
激しい音楽に彩られた第一部、第二部とは一転、第三部(ユーゴ内戦)では地上に出た彼らの姿があった。ドイツの精神病院に収容されたイヴァン*、セルビア軍の隊長として内戦に参加するクロ、敵味方関係なく金のため生きるために武器を売るマルコとナタリア。画面を覆う重苦しい雰囲気。あの楽隊の姿はどこにもなく(実は第二部でマルコとナタリアが地下を爆破し全員を殺害)、踊る者はもう誰もいない。最終的にマルコは、兄に騙され続けていたことを知ったイヴァンにより撲殺され、ナタリアはクロによって(意図せずして)処刑され、兄を殺したイヴァンは自殺…。救いようのない結末である。やりきれない。でもこれが戦争なのだということなのだろう。しかしながら、監督はこの御伽噺にふさわしい素晴らしいエンディングを用意してくれていた。再会したクロにマルコが問う:「赦してくれるか?」。クロは応える:「赦す。しかし忘れん」と。愚かな殺し合いをした祖国を監督はそれでもやはり赦すということなのだろうか。おそらくそうなのだろう。でも決して忘れてはいけないのである。再び楽団があの音楽をけたたましく鳴らし宴が始まる。吃音症のイヴァンが流暢に語っている。そして「この物語には終わりがない」という字幕で映画は終わる。圧巻のエンディングである!命の大切さや戦争という行為の愚かさを百の言葉で説くよりも、「生きたい!」という肉体の叫びをストレートにぶつけてくる本作品こそ極上の反戦映画である。
*注:「精神疾患と診断され入院」という表現が適切なのですが、作品中の状況から「収容」という言葉を使用しました。

「アンダーグラウンド」(英題: UNDERGROUND)
制作:1995年 フランス=ドイツ=ハンガリー 171分
監督:エミール・クストリッツァ
音楽:ゴラン・ブレゴヴィッチ
出演:ミキ・マノイロヴィッチ、ラザル・リストフスキー、ミリャナ・ヤコヴィッチ、スラヴコ・スティマツ、スルジャン・トドロヴィッチ

映画『アンダーグラウンド』公式サイト:http://www.eiganokuni.com/ug/
神戸アートビレッジセンター KAVC CINEMA 公式サイト:http://kavccinema.jp/

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