フェデリコ・フェリーニ監督「フェリーニの道化師」


映画が人を癒す魔法を持っているとして、年間に何百本と制作される作品のうち一体どれだけの映画が実際にそのような力を備えているのだろうか?おそらく十本にも及ばないであろう。ましてや直接的な言葉を使わずに映像の魔力によってそのようなことができる作品というものは映画史全体においても稀なのではないか。『フェリーニの道化師』はまさにそのような力を持った稀有な作品だ。(写真:神戸市兵庫区KAVC内ポスター)
『フェリーニの道化師』は、子供の頃からサーカス、ことに道化師に深い愛情を持つフェリーニ氏が、絶滅寸前となった子供の頃に見たあの道化師達を捜し求める旅を綴ったドキュメンタリーの形をとった作品。映画は彼の子供の頃の回想から始まる。大人に「(道化師は)楽しいでしょう」と問われ、「(道化師は)自分にとっては楽しくなんかない。もしろ奇妙で恐ろしい存在。あのような奇人変人は自分の周りに沢山いた」とふりかえる。そして次々に紹介される『奇人変人』たち。
確かに、私の周りにもあのようなかなりエキセントリックな人々が子供の頃は存在していた。汚い小屋に住んでいて奇声を発しながら道を行く精神を病んだ『よっしゃん』という新聞配達のおっさん。緑色の顔をした人形をいつも乳母車に乗せているおばさん、死んだ妻が愛用していた毛布を夏でも腰にまいて何故かにやにやしながら道を行ったり来たりするじじい。長田神社参道の軍服を着た脚のない元軍人、三宮の『こじき』のばばあ。あのような人達はどこに行ってしまったのだろう?
今でも確かに精神を患った人々や、やや危ない感じの人、アル中ヤク中の人々は存在する。新開地や新世界に行けばかなりエキセントリックな人々にまだまだ出会える。しかし、昔と違うのは、彼らが子供の住む場所とは離れたところに存在しているということだろう。私たちは子供数人で前出のよっしゃんを「よっしゃーん、あほー、きちがい!」とからかって、彼の小屋におしかけてはわざと怒らせて逃げるという遊びを毎日のようにやっていた。彼の機嫌が良いときには彼のコレクションである卑猥な生写真を見せてもらった。こじきのばばあの横では子供たちが「右や左のだんなさま~♪」と彼女と一緒に歌ったりした。うちの店に来る女装家にはいつも「おかまちゃーん!」と挨拶していた。差別的な言葉もどんどん使っていたが、それでも『変な人々』は確実にコミュニティの一部であった。今ではそのような人々に対する差別的な言葉を使うことは悪とされほとんど耳にしなくなった。もちろん、路上生活者となるきっかけや事情は昔と今ではかなり違う。しかし、今ではあのような人々に子供が話しかけるということは全くなくなってしまったのではないだろうか。表面上はとても優しくて上品な社会になった、まるで彼らは存在しないかのごとく。
フェリーニの周囲でも同じことが起きていたのだろう。自分の周りの危険な変な人が隠されていくのと同時進行的に、彼の愛した道化師たちも姿を消していった。ここでいう「道化師」とは所謂「オーギュスト」のことである。道化師にはいくつものタイプが時代や地域ごとにあり、映画の中にも出てくるパリの「白い道化師」はエレガントな衣装に身を包むおしゃれで洗練されたもの。それが象徴するものは気品、優雅、聡明、理性、悲哀、芸術。これらを真っ向から否定する真逆の存在が「オーギュスト」。間抜けで下品で無骨で本能的で子供じみた馬鹿騒ぎをしてサーカス場を走り回りのたうちまわる。映画に登場するこれら2タイプの道化師はまったく異なるもののように見えて、実はどちらもが人間を構成している要素なのである。我々にとってどちらもが怖くもあり愛しい存在であるのは、自分自身の中にあるものであるのであるから、当然のことなのかもしれない。しかし社会が洗練されていくにつれ、我々自身によって後者は否定され隠され抹殺されていったのだ。
社会から消されサーカスから姿を消していった道化師たちは本当に滅んでしまったのか。彼ら(の痕跡)を求めてフェリーニは旅を続ける。そして最後に出した結論は「彼らはもういない」ということ。そんな彼らのためにフェリーニが最後の『祭り』を用意する。きちんとした葬儀を行なうこともなく人知れずいつのまにか姿を消した道化師達の『葬儀』である。ラストのこの葬儀はもう圧巻。長い間彼らをおしこめていた箱の蓋ははずされ、道化師たちが華やかなサーカスの舞台へと飛び出す。それは理性や洗練が良しとされた現代社会で押し殺していた本能的なものや愚かさといった自分の半分との出会いでもある。葬儀を行なっていたはずの道化師たちはすぐにそのことを忘れて悪ふざけが始まる。狂ったようにサーカス場を走り回る。「走れ、走れ、もっと走れ!」とフェリーニの心も叫ぶ。そしてこれは葬式であったということをふと思い出した道化師たちは一瞬だけ神妙な表情をするものの、長くはもたない。またすぐに悪ふざけとお祭り騒ぎが始まる。大人しく行儀よく振舞うということは彼らの中にはないのである。最後の最後まで道化師は道化師なのだ。「走れ!走れ!暴れるのだ!いいぞ、もっと!」とさらにフェリーニは喜ぶ。観ているこちらもこの最期のお祭り騒ぎに酔いしれ言いようのない幸福感に満たされる。文章で表現すると「なんのこっちゃ」ということになってしまい実際に大画面で観ないとこれは分らないのだが、まさにこれがこの映画が人を癒す『魔法』を持っているということなのだ。
そして楽しいお祭りも終わりを迎える。一人また一人と道化師たちが消えていったあとのサーカス場に残される二人の道化師。その彼らも去らねばならない。二つの長い影が幕の向こうへと消え去る。私は「行かないで」と泣きそうになる。映画が終わってもしばらく席を立てない。が、それは彼らが消えてしまった悲しさではなく、フェリーニが見せてくれた魔法にまだかかっていたからかもしれない。今回の新開地KAVCでの上映はあと1回、12月25日のみです。DVDは出ていません。鬱々としていらっしゃる方、90分だけでも魔法にかかってみてください!

「フェリーニの道化師」(原題:I Clowns)
制作:1970年 イタリア 91分
監督:フェデリコ・フェリーニ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:フェデリコ・フェリーニ、アニタ・エクバーグ、ピエール・エテックス、ジョセフィン・チャップリン他

神戸は神戸アートビレッジセンター(KAVC)にて、残りは12月25日上映のみ。

コメント

  • こんばんは!お久しぶりです!フェリーニですか。と言えば『道/ジェルソミーナ』『8.1/2』他数本。それも殆ど私には印象がうすいのです。私には合っていない作品たちなのかともよく思いました。でも、サーカス!華やかでたのしくてその裏に秘めた悲しさ哀れさのような独特の雰囲気は好きです。

    サーカスは人を楽しませそして癒やしてくれますね。そしてDaiseeさんの言われるように、人を「癒やす」映画などめったに出会えるものではありません。私自身そのように感じる映画は数本でしょう。

    『フェリーニの道化師』は残念ながら未見です。でも、このDaiseeさんのレビューは私を50数年前の甘酸っぱい記憶を蘇らせてくれました♪
    私の周りにもそのような、おかしな人たちがいっぱい居ました。そしてその人たちとすごく距離が近かったのです。変人も奇人も精神異常者も私達と一緒に生活していました。よほどの事がない限り、隔離などしなかったと思います。

    こんな事を考えていたら、今年の1月に観た『ロストパラダイス・イン・トーキョー』を思い出しました。この作品も、精神障害者と健常者の間の垣根を作ってはいけない、同じ社会で共に生きよう!非常に深いモノがあり、私は今年の邦画ベストに推しています。

    あ、話がフェリーニからだいぶん離れてしまいましたネ。他人さまのレビューを読んでこれほど共感し、また暖かくなったことも稀です(褒め殺しかっww)

    いや、ほんまにありがと~~♪♪また頼んますw

    (^_-)-☆ちょいバカおやじ♪

    2011/12/25 23:38 | ちょいバカおやじ

    • ちょいばかおやじさま

      コメントありがとうございます♪寒い中、暖かくなってもらえて何よりです!
      昔はごったごたで楽しかったです。この映画は私をそんな昔へ引き戻してくれるのです。
      おかしな人達、どこへ行ったんでしょうね。今は子供の見えないところに隠されてしまっているようです。
      キチガイ、ちんば、こじきetc. 変に言葉を制限して子供にその存在を教えないで「皆、同じ人間よ、
      差別はいけませんよ」などと言って違いがないかのごとく振舞うのはどうかと思うのです。。。
      今年もあと少しですね♪♪

      2011/12/26 03:25 | Cape Daisee

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