ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」
私がまず強く感じたことは、登場人物の間で性愛というものについての姿勢が男女間で明確に異なるということだ。女たちにとってセックスとは愛であり、愛とは現実の一部であり生活である。一方、男たちにとってはセックスとは刹那の快楽であり、彼らの生活もまた地に足のつかない浮遊感を漂わせている。二人の女の生活の中心は工場での労働、学校教師。そのような現実世界をきちんと生きている。一方、三人の男の生活は今ひとつ現実感を欠いている。ことに印象的であったのは、女性たちの名前「リー・ジン」と「リン・シュエ」は何度も連呼されるのに対し、男らの名前はほとんど呼ばれることはない。名前というものは、現実社会で生きているということを他者から認識されるためにはいやでも必要なものである。それを持たないかのように描かれる男たちのリアリティとはどこにあるのか。浮気をつきとめた女教師リン・シュエが、ジャンの職場に乗り込み、彼を罵った言葉に「あなたが生きているのは白日夢」というものがあったが、彼らの世界はすべて「白日夢」ということなのであろうか。そのようなジャンの名前が一度だけ高らかに連呼されるシーンがある。ゲイ・クラブの舞台でだ。美しく女装して歌うジャン。彼の現実とはここだけであるということなのか。
男たちの非現実性は、ワン・ピンの、妻と恋人と自分の三人で仲良くうまくやっていけるという考えや、探偵ルオの、新たな恋人ジャンと自分の彼女と三人で旅に出ようという行為にも表れる。夢の中に生きているのだ。当然、リアリティを生きる女たちはこれを受け入れるわけがない。
このような男と女の対比は本作品の撮影(或いは照明と言うべきか)テクニックにおいても発揮される。男たちの顔はほぼ常に影の中にあり、周囲の景色ばかりが光の中にある。終始一貫してである。普通の映画であれば考えられないことだ。しかしながら女性たちが明るい光の中に生きているかというと、そういうわけでもない。彼女らもまた出口の見えない関係にもがき、影と光の中を交互する。
そんな彼らに一瞬希望が見えたかに思えるシーンがある。車で旅に出たジャン、探偵ルオ、その恋人リー・ジンの三人。光降り注ぐ中を走る車。すべてはうまくいくのではないかという幻想を一瞬抱かせさえするシーンである。しかしここでも二人の男の顔には陽光は当たっていない。女性であるリー・ジンの顔のみが太陽に照らされる。まるでこの先を暗示するかのように。
ここまで書くと、現実を生きる女たちと地に足のつかない男たちという明確な線引きがあるように見えるが、実は三人の男の中で主人公ジャンのみが他の二人とは大きく異なっている。彼は自分は漂い続ける浮き草のような存在であるということをはっきりと自覚しているのだ。故に二人の恋人(男)が迷いを見せたとき、つまり、現実の『普通の』社会と折り合いをつけながら生きようとした時、自ら彼らに別れを告げる。一見、彼が周囲の人間を巻き込み、傷つけているようにも見えるのだが、実は最も傷ついているのは彼自身なのである。恋人が男と愛し合っていることを知り、傷ついて一人カラオケを歌うリー・ジンの手を握るジャン。この時彼女は彼もまた自分同様に深く傷ついていることを初めて知る。最後にジャンが自らの体に刻んだ花の刺青は、自分や他者につけた過去の傷すべてに責任を負って生きていこうという決意の表れではないだろうか。
男性同士のセックスが生々しく描かれた本作品だが、私自身には特殊な関係性には見えなかった。むしろ、遠い昔に自分が歩んだ道で嗅いだ匂いととても似ているような気がした。若さにつきものの形容し難い傷を再び見せられるかもしれない、それはかなりの痛みを伴うかもしれないという不安は見事に外れ、むしろ懐かしいものを見ているような気がして感傷的にさえなった。恐らく本作品は、観る人個人個人の体験や年齢や性別や境遇によって非常に異なる受け入れられ方をするのではないだろうか。
「スプリング・フィーバー」(原題 “春風沈酔的夜”)
製作:2009年 中国
監督:ロウ・イエ
脚本:メイ・フォン
出演:チン・ハオ チェン・スーチョン ウー・ウェイ タン・ジュオ ジャン・ジャーチー
私的評価:★★★★☆ 82点
スプリング・フィーバー公式HP: http://www.uplink.co.jp/springfever/
神戸・元町映画館公式HP: http://www.motoei.com/
*ブログ『Days in the Bottom of My Kitchen』 2011.1.15掲載
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